お茶のはじめ~最澄と空海

抹茶 喫茶~言の葉
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☆仏教と共に渡来してきた茶の話

最澄と空海とお茶

昨日、日本のチャノキの歴史について書きました。
そこで、遣唐使によって、大陸から日本にチャノキがもたらされたと書きました。

今日はその追加報告です。

最澄が帰国したのは西暦805年。
その時、持ち帰ったチャノキを、比叡山に植えたとされています。

そして空海が帰国したのが西暦806年。
国費で唐に渡ったエリート僧の最澄と違って、空海は私費で渡った一介の僧です。
なので遣唐使としての条件もずいぶん違うんですね。

なので20年帰国できない空海が、あまりに優秀で学ぶべきことを学び終えて2年で帰国してしまう。
それで朝廷から3年間、京に戻ることを禁じられる。
そこでまず九州大宰府の観音寺あたりに1~2年、留め置かれるんですね。(諸説あり)
では間違いなく、空海はチャノキを生かし続けるために、そこに植えなければならない。

前にも申しましたが、チャノキの種は寿命が短いですから、早めに植えなければなりませんからね。
< 茶の実の寿命

そこで、最澄、そして空海が大陸から持ち帰ったチャノキが今もそこに在るのかを調べてみました。
今日はその話。
チャノキ

最澄と比叡山

最澄が拠点とした比叡山は、ここからのちの仏教の各宗派・開祖を輩出しています。
織田信長の焼き討ちにも会いましたが、なんとか無事だったようです。

日吉茶園

日吉茶園について (seiseido.com)

こちらは、東大の研究グループが中国大陸の天台山にある茶と、こちら日吉茶園の茶のDNAを調査して、同じとされたそうです。
さすが天台宗ですね。
最澄

では、空海上人の方はどうでしょうか?

空海と大宰府

空海と言えば高野山です。
ところが、先述の通りチャノキに焦点を絞るなら、まず帰国後1~2年留め置かれた大宰府が注目されます。

まず大宰府は観世音寺ですね。
現住所は福岡県太宰府市観世音寺5丁目6−1。
こちらには残念ながら、空海の痕跡は余り残されていないそうです。
つまり、現在、大宰府には空海ゆかりの茶の木は無いという事です。

そこで、空海の御請来目録(ごしょうらいもくろく)をちょいと調べてみました。
これは、遣唐使が唐から日本へ持ち帰ってきた典籍や物品の一覧の事です。

空海 御請来目録

御請来目録 文化遺産オンライン (nii.ac.jp)

ここには、お経や曼荼羅にいろんな法具、仏像などが書かれています。
しかし、お茶の記述は無さそうです。

大宰府から20kmほど南下したところに八女茶の産地があります。
ただ、こちらの発祥は周瑞禅師だそうですね。

これはもしかして、持ち帰ったにしても大宰府逗留中の1~2年間で、ほぼダメになった可能性が高いと私は考えています。

ただしこういう記述も見つけました。
ちょいとロマンを感じましたので、それを次に書きます。
空海

奈良の大和茶

大和茶というのが奈良にあります。
奈良市のホームページにも書かれていますが、この大和茶と言うのが空海が持ち帰ったチャノキの子孫だとか。

これによると、806年に空海が宇陀に植えたとあります。
しかし、この年は、空海は大宰府に足留めされているわけですから不可能です。
しかも帰国したのは10月ですから、寒い。
チャノキを植えるのは4~6月でないとダメですから。
806年に宇陀に植えたというのはあり得ないですね。

出たここで、面白い話を見つけました。

元高野山大学教授の中村本然先生と言う方がいらっしゃいます。
先生によると、空海は茶の湯に造詣が深かったということが「三教指帰」や「遍照発揮性霊集」に散見されるという事なんです。
これらは二つとも空海の著。
それによると、空海が、何でも仙薬としての茶に注目していたみたいなんです。

やはり空海は、茶に注目していた。
20年の滞在期間を10分の1に短縮し、賞罰を覚悟しての自己判断で帰国した空海です。
せっかく持ち帰った茶が大宰府滞在中に枯れてしまったとき、空海の落胆も大きかったと思います。
しかし先に帰国した最澄が持ち帰っていた株は無事に育ったようですので、やはりこの偉大な僧たちの物語は面白いですね。

ところでその京都では、最澄以外にもこういう僧が唐から帰っておりました。
これを次に述べます。
緑茶

永忠和尚と嵯峨天皇

面白い人物がおります。
最澄と空海が行った遣唐使の中に、永忠和尚と言う人物がおりました。

この永忠和尚。
行きも帰りも最澄と同じ時期ですから、国費のエリート僧です。

「日本後記」には、815年に崇福寺(隣接、もしくは部分的に重なっていた可能性のある、梵釈寺の説あり)にて、永忠が、嵯峨天皇に茶をたてたとあります。
その1ヶ月半後に天皇が詔(みことのり)を出し、畿内・近江・播磨・丹波に、と茶を植えさせ、その後献上品としたとも書かれています。
ここでの一服が、嵯峨天皇はたいそうお気に召したという事なのでしょう。

ちなみに、崇福寺は比叡山の南尾根の端にあった寺。
琵琶湖の南端に近い山の斜面にありました。
現在でも、崇福寺跡として保存されています。

また、以下の場所は現在ではこのようになります。
畿内(おおよそ奈良京都)
近江(おおよそ滋賀県)
播磨(兵庫県西部)
丹波(兵庫京都あたり)

この時代の首都は平安京ですから、京都です。
つまり嵯峨天皇は、お住まいを囲む地域にチャノキを植えるよう詔を発せられたという訳です。
抹茶

空海と永忠和尚

長くなってますが、ここでやめてはつまらないのでまだ書きます。

この永忠和尚、無名の私費留学僧だった空海と親交があったと資料に書かれています。

814年に嵯峨天皇から新たに役職を申し付けられた永忠。
ですが、高齢のためにその役職を辞退したいという旨の文書を天皇にしたためます。
ところがこの文章を書いたというのが、空海なんですね。
よほどの信頼です。

さて空海ですが、大陸では永忠が居た長安の西明寺を住まいとしたと帰国の報告書に記されているそうです。
仏教だけではなく、書や茶に造詣の深かった空海に永忠が注目し、既に唐で交流が始まっていたのかもしれませんね。
抹茶

京に広まる茶の文化

最澄・空海・永忠たちの遣唐使の前後の朝廷はこうなっています。

三人が(もっと他にもいました)遣唐使として日本を離れた時は、桓武天皇。
空海が帰国して大宰府に留め置かれている時は、平城天皇。
空海が京に入る事が認められたのは、即位からわずか3ヶ月後嵯峨天皇の御代。
この空海の入京には、最澄の尽力も大きかったと言います。
こうみると、空海と嵯峨天皇との関係も面白いですよね。

話は前後しますが、805年には、永忠と共に帰国した最澄が茶を比叡山に植えています。
空海帰国が806年。
嵯峨天皇が、チャノキ植栽の詔を出すのが815年。

崇徳寺で出されたお茶は、最澄の茶でしょう。
日本に、茶の文化が広まる初めの時代の話でありました。
抹茶

大和茶と堅恵

ところで、面白い記述を見つけました。
< 奈良観光協会HP

ここに空海の高弟である「堅恵(けんね)」と言う名が出てきます。
空海が、唐より持ち帰った茶の種と茶臼を堅恵に持たせた。
そして堅恵は、宇陀の佛隆寺にそれを運んだと。

え?
空海が持ち帰った茶の種と、臼ですって!!!!!
なになに。

じゃあ、堅恵について調べます。
空海十大弟子の中には、その名は見当たりませんね。
しかし「弘法大師弟子伝」の中に、その名がありました。
国立公文書館デジタルアーカイブ 弘法大師弟子伝

ここによりますと、こう在ります。
「和州室生開山堅慧大徳傳」
なんでも、大唐国日本国附法血脈図記と言う書物もかいてらっしゃいます。

室生といったら、女人高野ではないですか!
高野山は空海ですから、、おお!
ちなみに空海は、嵯峨天皇から高野山を816年に、東寺を823年にそれぞれ下賜されています。
高野山

佛隆寺と堅恵

さてこの室生寺の末寺に当たるのが佛隆寺で、この寺の開祖が堅恵(慧)なんです。
ここに空海の持ち帰った茶臼が、今でもあるそうですよ。
そして、空海が唐から持ち帰った茶を栽培したとされていますが、、、。
しかし。
堅恵が室生寺に入ったのが835年。
そして佛隆寺の開祖となったのは850年なんです。

ということは、、です。
こう見てくると、空海の持ち帰った茶の種と茶臼が佛隆寺に伝わってるという話。
納得しました。
堅恵が佛隆寺に持ってきたのは、空海が唐より運んできた44年物の茶の種という事でしょう。
それで、空海が持ち帰った茶を、この年数がたった後に栽培するのは不可能です。
絶対に芽が出ない、茶は短命種子だからです。

つまりこう言う事でしょう。
堅恵が佛隆寺を開いたのは850年で、嵯峨天皇がチャノキ植栽の詔を出した35年後。
この頃は、もうとっくに最澄ルートのお茶が広まっていたと考えられます。
そこに、最澄が持ち帰って増やされた株を、空海のお弟子さんが大和茶として定着させたという事でしょうね。
そして44年物の茶の種を、師匠からの賜りものとして寺に納めた。
そう言う事だと思います。
茶の実

栄西と喫茶

さて、堅恵が佛隆寺を開いて340年ほど後の事。
最澄の比叡山より、栄西禅師が、宋から持ち帰った茶を九州肥前霊仙寺で栽培し始めます。
これがきっかけとなり、日本に広く茶を楽しむ喫茶と言う文化が根付いていったんです。

あ~大変だったけれど、仏教とお茶、調べていて楽しかったです。
お茶
では本日ここまで。
最後までお読み下すってありがとうございました。
どうぞ佳き一日を💐

Ψ~ 緑の命 ~Ψ
執筆者
毎日をワクワクに変える植物教育研究家
kazuhiko
略歴
園芸の生産・流通・販売・教育と多岐にわたり都合45年勤務。
植物がもつ癒し力や、ちょっとミステリアスな植物の物語を、色んな年代の方に届けています。

現代は、デジタル時代。毎秒おしよせつづける情報に、私たちの脳は、年中無休の疲れ気味。 そこで身近な植物を使った、効果絶大わずか5分の、カンタンな心身癒しをご提案中♪
喫茶~言の葉
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