☆今年の桜前線の様子
今日から四月
新年度になりました。
お別れの多い三月が終わり、出会いの多い四月がやってきました。
今月は、環境ががらりと変わる方も多いですよね。
また気温の変化も激しい時期です。
どうぞくれぐれも、お体、そして心を大切にお過ごしください。
各地で続々サクラ開花中
これは昨日3月31日、日本気象協会から発表された桜開花情報及び開花予想図です。
開花状況
まず、サクラの開花状況及び開花予想図。
図では見えづらいので文字にしますと、以下のようになります。
既に開花宣言済みの場所と、宣言が出された日付から。
高知が3月23日。
広島が3月25日。
福岡は3月27日。
名古屋3月28日。
そして3月39日が、東京・京都・鹿児島。
大阪は3月30日。
こうなっています。
桜前線は南から北へ向かいますが、けっこうバラバラですね。
これからの開花予想
続いて、これからの桜開花予想日は以下です。
今日4月1日が、福島と金沢。
4月2日は仙台。
4月7日が長野。
本州最北の青森が4月18日。
海を渡って北海道では札幌が4月26日。
日本最東端の釧路では5月11日。
今年は太陰太陽暦(旧暦)によりますと、昨年より春の到来が遅く、夏の到来はやや早く短いと出ていますから、私はこの開花予想より遅く咲くんじゃないかと見守っております。
こういう観察は、実にノンビリわくわくするものです。
さてどうなりますやら。
桜満開予想図
こちらは、気象庁から発表されている今年の桜の満開予想図。
高知では、昨日3月31日に満開を迎えたそうです。
以下、気象庁の満開予想も、文字起こししておきますね。
4月2日が、京都と広島。
4月3日は名古屋。
4月4日は東京。
4月5日は福岡と福島。
4月6日が大阪と金沢と仙台。
4月9日鹿児島。
4月12日長野。
4月22日は青森。
4月30日が札幌。
5月13日が釧路。
こうなっています。
開化順に満開を迎えるという訳ではないのが分かりますね。
太陽太陰暦(旧暦)について興味がありますので、先ほど申しましたように、今年は春全体が遅れ気味のはずと、旧暦が示してることに注目しているところです。
私の住む札幌では、果たして満開がゴールデンウィーク後半にズレるのか、さあ、どうなるでしょう。
桜の開花は、誰が決めるのだろう?
さて、こうして見てきた今年のサクラ(染井吉野)の開花宣言なり、満開宣言なり。
これは一体だれがどのように決めるのかと申しますと、気象庁の職員が決めます。
各地に、標準木と呼ばれる基準となる木が決められていて、おおよそその季節になると、標準木まで職員が足を運んで、実際に観察するんです。
風情があってよいものですよね。
これも、ただの観察ではなくて、観天望気(かんてんぼうき)と呼ばれる古(いにしえ)の時代から受け継がれてきた気象予測技術の一つなんですよ。
では今日は、その、観天望気。
この日本に受け継がれてきた気象予測技術の歴史において、本日が大分岐点となりましたので、そのことについて記してみます。
☆気象庁にも自動化の波
日本での気象観測の歴史
先ほども申しましたが、本日、2024年4月1日。
今日は、日本の気象観測における一つの分岐点となった日です。
と申しますのも、これまで全国11か所で3時間ごとに行われていた「目視観測」。
これは、気象庁職員が実際に天候を目で観察し報告されていた観察記録のこと。
これが今月から、東京と大阪の二ヶ所の気象庁でしか、行われなるからです。
普通に話すと長くなるので、簡単に述べますね。
ではまず、日本の気象観測の大ざっぱな流れのご紹介。
幕末まで
もともと日本に気象観測の考え方が入ってきたのは、5世紀の始めと言われています。
入ってくるというのは、大陸の方からですね。
5世紀初め。
これは縄文時代の終わりと、弥生時代の始まりから中期を指します。
つまりこれは、稲作の技術と文化が入って来るのと同時期だったという事です。
当然、定住して取り組む稲作と、気象観測(お天気の様子)とは、深い関わりがありますからね。
ただこの頃は、今みたいに科学的なものではありませんでした。
この時代の天気予報を「勘」と言うなら、それもあったでしょうね。
でも、単なる勘では無かった。
これはですね、今では「観天望気」と言われるものです。
様々な現象(雲の形や動物の行動など)から、これからの天気変化を予測することです。
その観天望気の原初の形であったと思われます。
時代は下って飛鳥時代。
この頃には、朝廷所轄の陰陽寮と言う組織で、天文博士(天文観測で占星術を行う)や、暦博士(星々の運行や、観天望気から暦を編纂や作成を行う)という職位も置かれました。
こうして、日本の地に合った太陰太陽暦(旧暦)が生み出されていったのです。
そして並行して、観天望気は各時代の経験値を重ねながら発達していきました。
さらに時代は下って江戸時代。
長崎から西洋の技術が入ってくるようになって、気圧計(天気儀)や温度計(気候儀)も入ってきました。
太陽太陰暦に、西洋の技術や知識も取り入れられるようになって行ったんです。
明治~平成
やがて江戸幕府が倒れ、明治政府が樹立されます。
その時、一気に近代化と呼ばれる急激な西洋化が行われていきます。
気象庁HPによりますと、1871年(明治4年)にイギリス人技術者の基、東京の三角測量開始。
2年後には西洋の気象台設営を決定。
さらにその10年後、ドイツ人技術者の尽力で全国から気象電報が届くように整備完了。
その翌月、1883年(明治16年)3月1日に、東京気象台で毎日の天気図印刷が始まりました。
なのでよく、観測史上初という言葉が出てきますが、こういう事です。
明治政府以降、近代的な気象観測が続けて行われるようになって、データが徐々に積み重なっていきます。
この時期から現在までの期間で記録的な気象現象が起こると、「観測史上云々」と表現されるのです。
つまり、ニュースでよく耳にする「観測史」の始まりは、1883年(明治16年)3月1日という事になります。
ちなみに1872年(明治5年)に、太陽太陰暦に変わり、太陽暦(グレゴリオ暦)が政府に採用されました。
ここで太陰太陽暦を「旧暦」と呼び、太陽暦を「新暦」と呼ぶようになったのです。
旧と付くと、古臭くて劣っているというイメージが湧きますよね。
実は私もそうでした。
しかし、最近人生の終わりが近づいてきて、旧暦の内容の濃さが妙に気になっています。
やはりこれは、大変すばらしい暦ではないかと。
令和
時代は下って、令和6年。
今年ですね。
令和6年3月に、気象庁は、各地11ヶ所の気象台で100年以上続けられてきた目視による気象観測を終了し、自動観測に切り替えました。
※今月からは、東京と大阪の気象庁のみで継続。
もう少し詳しく述べますと、この気象庁職員による観測の終了は、2019年から段階的に行われてきていました。
目視による気象現象観測。
平たく言えば、これは観天望気の事です。
そう、弥生時代に渡来して来て、各時代の知識を重ねて熟成されてきた気象予測技術ですね。
それが100年以上続いていたという事は、明治政府が新暦を公式に導入した時でも、観天望気は自然を読む視点の一つとして今も残されてきていたという事です。
ただ、気象庁が明治から行ってきたこの業務は、観天望気とは呼ばれずに「目視観測」と呼ばれています。
ですがこれは、観天望気の一環であることは間違いありません。
この、気象庁の職員間で受け継がれてきた目視観測地点が激減させられた理由は、職員の人員減と負担減。
それに代わって、気象レーダーや気象衛星の高度化・そのほかの観測装置の高性能化が進み、それらを用いた気象観測の自動化が、気象庁から目視観測に取って代わってきたということです。
今後は、人の目では観察できていた虹や黄砂などが、今の機器では判別できないという事で、気象の記録には残らなくなるという事です。
なんだか寂しいですね。
技術の継承
ところで、チラチラと話に出てきた「観天望気」は、伝承技術です。
目の前の気象現象を、メモにして渡しても目で見て、肌で感じて、耳で聞いて、香りを嗅いでと五感総動員もしないとできないモノ。
これは私の経験からも言えることですが。
軽い予測でも、真剣にやっても1年はかかるかなと言うものですから。
気象庁の目視観測。
これが明治以降、気象庁のプロが長い時間かけて手渡ししてきた技術です。
そして観天望気は、その目視観測を含むもっと大きな範囲を含む気象予測の技術です。
また、弥生時代からの伝承技術とも言えるんです。
こういった伝承の技術がスパンと断ち切られた場合、10年も経つとメモの記録だけで表面の技術しか伝わりません。
目視観測。
明治時代から気象庁の職員間で受け継がれてきた技術が、気象協会のプロの現場で、東京と大阪を残して先月で絶たれました。
時代とは言え、それが残念でなりません。
という事で、本日ここまで。
最後までお読み下すってありがとうございました。
どうぞ佳き一日をお過ごしくださいませ💐