現代にも影響を与える、縄文文化と弥生文化②

弥生時代 命の不思議
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< 現代にも影響を与える、縄文文化と弥生文化①より続く

☆国が変われば文化も変わるということ

雑談:他国の様子

さて昨日は、縄文について書きましたが本日はその続き。
そして書いてて思ったんですが、やはり過去は大事ですね。

植物に関する私のバックボーンは、江戸園芸。
私の師事した方々は、昭和の、まだ江戸園芸の影響を色濃く遺した方ばかりだったのでそうなるんですが。

だからと言って、江戸時代だけを語っていたのでは片手落ちなんですね。
何も文化は江戸が発祥ではない、その前からの因果関係もありますから。
昨日も申しました通り、文化は連続体です。
こと、日本においては本格的な海外からの侵略成立も今のところなく文化が連続していますから、古い時代の名残が今でも残っているんです。

それらを振り返って見てみることは、今をより深く知ることにつながります。

ではまず手始めに、ほんの少し、海外に目を向けてみましょうか。
能舞台

アメリカ大陸では

これは少し分かりづらい話かもしれませんね。

例えばアメリカ。
先住民族のインディアン(ネイティブアメリカン)は、ヨーロッパからの入植者にほぼ絶滅させられて、そこにあった文化も、国としては継承されていないです。

南米のマヤ文明やインカ文明も、欧州の軍事力によって、遠い過去に壊滅させられました。

そうしてそこにあった文明や文化を破壊してのち、入植をして新しい国が作られていったのです。
グランドキャニオン

中国大陸では

お隣の中国でも同じ。
「中国4000年の歴史」というのは言葉遊びみたいなもので、かの国は、1949年10月に建国された比較的新しい国です。
まだ出来て、今年で75年ですね。

その中で、文化大革命と言う、これまでの文化や権力を破壊する政治活動によって、多くのモノが破壊されました。
これは物、だけではなく、精神や思想についても行われた破壊活動で、1966年から10年間続けられました。
長崎 四海楼

ところで、今の中華人民共和国に至るまでにも、夏・殷・周・秦・漢・晋・隋・唐・明・清などと、国がこれだけ入れ替わっています。
これらは、細かいところを除いて有名な国名だけを歴史的順番に並べても、です。

その都度、支配者が変わり文化も刷新されてきて、そして社会主義の成立した1949年には別のものに生まれ変わりましたから。
成立17年後には、10年間の文化大革命ですから徹底していますよね。

余談ながら、夏は中国大陸最古の王朝と言われています。
殷の正式名称と言われているのが「商」、商人の語源です。
周は、青銅器文化が栄え、共和制の「共和」と言う概念が生まれた王朝。
秦は始皇帝で記憶されている方も多いと思います。

漢は、漢字と今でも言われていますね、この時代に日本に伝えられた文字(漢字)を使っていた王朝です。
隋の時代は、技術や学問を学ぶために日本から派遣されたのが遣隋使ですね。
遣隋使が派遣されたのは、西暦で600年から618年の事でした。
字源

唐の時代はもちろん遣唐使ですね、ここで初めて「日本」と言う国名が使われています。
遣唐使は630年から838年にかけて。
ここであの空海と最澄も唐に渡り、インドから伝来された密教を日本に持ち帰り、その後の文化に多大な影響を与えています。
万里の長城

さてややこしいのは、日本での表記です。

これら中国大陸での色んな王朝が成立し又滅亡していったのですが、ひっくるめて中国史と呼んでいる事。
その大陸を中国大陸と呼んでいる事。
さらに今の社会主義国である中華人民共和国(チャイナ)を中国と呼んでいる事。
ここに、「中国4000年の歴史」などとインスタントラーメンのテレビCMが流されたことで勘違いしている日本人が多いんですね。

かの国で、文化大革命後の新しい価値観が始まってからは、まだ48年です。
ラーメン

現在の話

このように海外では国が変われば、それまでの文化も刷新されます。
たいてい全く新しいものになってしまうんですね。

国そのものが変わるという時には、おおよそ殺戮と制圧を経て、次の文化が生まれるのです。
だからウクライナの人たちは必至で戦ってるし、イスラエルとハマスがああいう残虐な事をやっている。
ポヤンとしてても何とか生活できる戦後生まれの日本人の私としては、よ~~く考えないと中々理解できない海外の事情ですが、この歳になってなんとなく分かるようには、なって来ました。
つくづく日本はのどかであります。

もちろん日本でも戦国時代や明治維新の内戦はありましたが、そのバックボーンとしての日本と言う国は存在しつづけ、古くからの文化も受け継がれ、今に至っているのですから。
国自体が無くなって、まったく新しい国がそこに作られるって言う感覚は、ちょいとピンと来ませんよね。

さてと、前置きはこれぐらいにして、今日は日本の弥生時代に目を移してみましょう。
炭火

☆弥生

縄文時代の次が、弥生時代です。
もちろんこの時代同士の境界にも、明確な線引きはされていません。

それはなぜかと申しますと、統一国家が出来ていないからです。
なので全国一斉に、この日と決めて時代が変わるわけではないからです。
統一国家が無いのですから、全国一斉と言うのもあり得ないんですよね。

このように冗談みたいに書きましたが、縄文も弥生も、そのような時代だったのです。
つまり、縄文と言われる文化が栄えた時代が、縄文時代。
弥生と呼ばれる文化が栄えた時代が、弥生時代なのです。

ということで。
弥生について、こちらも縄文の時のように「時代」「文化」「人」の面から見て行きましょう。
鳥居

弥生時代

おおよそですが、今から2千3百年前から千7百50年前まであたりが、弥生時代と呼ばれています。

約550年ほどの時代ですが、現在でも炭素測定などで様々な研究が進んでおり、今後期間が見直されることもあるかもしれません。

また、2千3百年前から2千5百年前の200年間は、縄文と弥生が入れ替わった時期と言うのが現在の研究で言われています。
約200年かけて、徐々に時代が移って行ったという事ですね。

ただし、東北や北海道などの寒冷地に関しては、弥生文化は定着せずに、続縄文時代と呼ばれる縄文文化が続いていきました。
寒いので、稲作が出来なかったという事なのでしょう。

このように、縄文時代に起こった気候変動と植生の変化も安定し、照葉樹林文化と呼ばれるものが根を下ろした日本。
そこに大陸から伝わってきたのが、稲作。
それを持ち込んだのが、弥生人。
これが、弥生時代の始まりでした。
田んぼとカラス

弥生文化

稲作渡来

弥生文化は稲作文化だと言われていますね。
だからと言って、稲が縄文時代に全くなかったかと言うとそうでもないんです。

熊本大学の小畑教授の調査研究では、縄文土器からも稲の痕跡が発見されています。
ですから、少々あるには有ったんでしょう。

ところが大陸の方から、稲作文化が入ってきた。
場所は北九州だろうとされています。
理由は、北九州に水田の遺跡や大陸とほぼ同型の稲作用石器、そして炭になった米の発見が集中しているからです。

ただ、単に大陸から北九州へと単独のルートだけかと申しますと、これは諸説あります。
そもそも稲作の発祥地が、現在のインドのアッサム州、もしくは長江流域の方です。
なので、わざわざ中国大陸から朝鮮半島を経由して北九州からの上陸というルートだけというのも少々難があるのです。

なので一部は南海から南九州上陸や九州の西側一帯と言う、稲作発祥の地からの最短ルートからも渡って来たのではないかと言う、多段階渡来説も唱えられています。
田植え

陸稲と水稲

さて、稲作には、陸稲(おかぼ)という畑で作る稲と、水稲という水田で作る稲があります。
実はこれ、作り方の違いで、植物としては同じなんです。
この陸稲は、縄文時代にも作られていた可能性が大だという事です。

ただし、この陸稲だと収穫量も少ないし、同じ場所で毎年作ることができません。
これは、輪作障害(りんさくしょうがい)と呼ばれるもので、土の中の一定の栄養や病害菌が関わっていて、毎年同じ場所では同じ作物が育たなくなる現象の事です。

そこで、弥生時代に入ってきたのが水稲の技術。
田を作って水を張って、そこに稲を植えたら収穫量も増えるし、毎年続けて同じ場所で作ることができるようになる。

また前にも申しましたがこの時代は、照葉樹林が国土を覆っていて、水田に必要な良質な水資源が豊富ですから水稲に適していたという事もあります。

そして良い水田を作るという事は、もう子々孫々そこで定住するという事を意味しています。
なぜなら水田は動かせませんから、人もその土地に留まることになるのです。
田んぼ

稲作と国家への地ならし

こうして安定的に米が採れるようになった。
またこの米と言うのが、保存がきくんですね。
これは当時の人にとって、実に魅力的な食料です。
何と言っても、食料が備蓄できるようになった。
画期的だったでしょうね。

縄文時代は、自然からの恵みのみ。
しかし弥生時代は定住した場所で、保存のきく魅力的な米が採れる。

当然、収穫量の高い水田と、収量の低い水田が出てくる。
ここで、縄文時代にはなかった貧富の差が生じます。

また、稲の収穫は一人ではできませんから、互いに協力しての農作業が必要になって来る。
稲作を中心にその土地で生きる集団「ムラ」の誕生です。

そしてそこには、集団作業では指示役と言うのも必要になって来ますよね。
これが、政治家の原点です。
卑弥呼

この状況に、縄文時代からの自然崇拝が重なって、カミに感謝する祭りが生まれたとも考えられています。
米の収量がムラの存続に左右もしたでしょうから、人の力の及ばないモノに対する祭りは、とても重要でした。
だからムラの規則やカミへの奉仕を政(まつりごと)と言います。

もう少し時代を下ったら、政を治める(統治する)ことを、政治と言うようになりました。

そして米などの保存時に、ネズミの害などから守るために、高床式住居が作られるようになり、集団の人数も増えてきました。
弥生時代

ムラからクニへ

水稲栽培技術が100年以上かけて、北九州から近畿地方あたりへと拡がってきたようです。
これは遺跡の発掘で、そこから出てくる遺物で分かるんです。
当時、約100年でのこの拡散速度はかなりのもので、それだけ魅力的な技術だったという事です。

それから、ムラによっても収量の差と言うのは当然出てきます。
つまり、ムラ間の貧富の差ができる。
文字通り、生産物収穫量にもムラができるという訳です。

そして水田は動かせませんから、やはり豊かな土地を守りたい、奪いたいそんな思いが出てくるわけです。
そう、ムラ同士の争いが起こります。

ムラ同士の戦いが繰り返され、強く豊かなムラは弱いムラを支配し統合し、より大きな集団の「クニ」になって行きます。
そしてそこには、強力で有能な指導者が生まれます。
これが、統治者の原点とも言ってよいと思います。

それともう一つ。
弥生のムラやクニの周辺には、柵や逆茂木が置かれていたようですね。
これは、縄文時代には見られなかった激しい戦いが、頻繁に起こっていた証という事になります。
弥生時代

またそれらの戦いでの大きな要素となったのは弥生時代の半ばに、大陸から入ってきた青銅器と鉄器。
青銅器はやがで祭器として。
鉄器は、農機具や他の加工道具、そして武器として使われるようになりました。
弥生時代の細型銅剣
※福岡市博物館 古代の剣と刀より

弥生人

弥生人の特徴

縄文時代の晩期。
単一ルートか、多段階渡来か、とにかく弥生人と呼ばれる渡来人が長い期間をかけて少しづつ、でも結果的には大量にこの国に入ってきました。

さてこの弥生人の特徴ですが、以下のようなものが挙げられます。

顔が上下に長く平面で、一重まぶたで細目。
平均身長は縄文人よりやや高め。
鼻幅が広くて低い。そして唇は薄くて、歯は縄文人よりやや太い。

それで、こちらも「時代」と同じ。
明確に縄文人と弥生人と分かれていたわけではなくて、多くの縄文人が暮らす日本に、徐々に水稲技術を持った弥生人が入って来て混血率が増えて行ったというのが本当の処のようです。

数の問題もあり、実に平和的に時代と共に婚姻が進んで行ったのでしょう。
それで青谷上寺朗さん、こちらの方もお父さんが縄文人でお母さんが弥生人でしたよね。
青谷上寺朗

邪馬台国と鬼道

話はわき道にそれますが、このクニの中で有名なのが、卑弥呼が治めた邪馬台国です。

卑弥呼は鬼道に仕えたとありますから、強烈な力を持った巫女みたいなものですね。
この鬼道、当時の大陸の国「漢」の資料に記されている言葉です。
鬼というものの漢での意味は、死者の霊魂や霊的存在の事。

ということは鬼道というのは、縄文時代からの自然崇拝に、大陸からの道教あたりと結びついたものかなと思われます。

現代でも、農作物の収穫を願う祭りや神事が各地で残っていますが、その遠い遠い原型が卑弥呼の鬼道かもしれませんね。

このように卑弥呼の場合も、政治と祭りの権限を、指導者が持っているという政(まつりごと)が見て取れるのです。
祭り

弥生人の服や酒

衣類については「筒頭衣」と言うのが、弥生時代の服だったみたいですね。

これは、一枚の長方形の布の真ん中に穴を空け、そこに頭を通して布を前と後ろに垂らして腰のあたりを紐で留める。
これが筒頭衣です。
つまり弥生時代には布があったという事です。

また、この筒頭衣を原点として生まれてきたのが、着物です。
着物

あ、そうそう。
東アジアに残る照葉樹林文化が、弥生時代に見られるようになりますので、おそらく南方からの弥生人渡来もあったと思われます。

その照葉樹林文化ですが、モチ米、モチアワ、モチキビなどの粘り気の多い種子澱粉をもつモチ種も共通に分布しています。
これらも一緒に入ってきたのでしょうね。

そしてまたこの時代、米を口で噛んで吐き出したものを発酵させて作る酒が作られ始めます。

当然、酒は祭祀に使われますから、当時はこれも鬼道の一部だったのかもしれませんね。
また、めでたい時には赤飯、餅、甘酒を振る舞う習慣というのも同じ照葉樹林文化です。
こうしてみると、弥生時代の面影さえ現代に残されているというのが凄い事だなぁと、私は嬉しくなります。
米と酒

という訳で本日ここまで。
最後までお読み下すってありがとうございました。
どうぞ佳き一日をお過ごしくださいませ💐

Ψ~ 緑の命 ~Ψ
執筆者
毎日をワクワクに変える植物教育研究家
kazuhiko
略歴
園芸の生産・流通・販売・教育と多岐にわたり都合45年勤務。
植物がもつ癒し力や、ちょっとミステリアスな植物の物語を、色んな年代の方に届けています。

現代は、デジタル時代。毎秒おしよせつづける情報に、私たちの脳は、年中無休の疲れ気味。 そこで身近な植物を使った、効果絶大わずか5分の、カンタンな心身癒しをご提案中♪
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