☆仮説~「渋谷茶の木」の歴史
明治以降の話
昨日書きました、渋谷茶復活プロジェクト。
こうやって、人と植物とが関わってきた歴史を背負う事。
そしてそれで、今を盛り上げようとする試みは本当に素晴らしいですね。
夢がある。
どこが美味しいとか、どうやったら美味しいとか言う以前に、先人たちが懸命に育てていた植物を現代に復興させようという志が嬉しい。
そもそも、あの賑やかな渋谷一帯がお茶の産地だったなんて、このニュースが伝わるまで知りませんでした。
私が東京暮らししている時でも、あまりにも人が多いので何十回も迷った渋谷。
目的地に着かずに、ハチ公像に三回も出会った魔境。
さて、そんな渋谷でお茶の栽培が盛んになったのは、何でも明治になってからの事だとか。
その後、交通の便も格段に良くなり商業も活発化し、他産地のお茶に押された渋谷茶は衰退。
そして第二次世界大戦でのアメリカ軍の大空襲で焦土と化した東京。
そのあとの大復興と急速な都市化の大波。
それらをかいくぐって生き抜いた、鍋島松濤園の4株のチャノキです。
ロマンですね。
復興してほしいな、渋谷茶。
明治以前の話
ここで私は、渋谷にチャノキがどう定着したのかという事が気になりました。
渋谷茶復活プロジェクトのホームページには、明治以降の茶について書かれています。
しかしそれ以前がどうだったのかは書かれていない。
元々日本にチャノキは無いと言われていますので、どこからかやってきたはず。
産業として名を馳せたのは江戸幕府が倒れてからですから、江戸時代はどうだったか?
こりゃ調べるしかない。
興味は熱いうちに打て、です♪
という事で私なりに調査。
古い本、引っぱり出したり。
また、私の実家が釜炒り茶を作っていたこともあって、そういうことは、お茶の子さいさい、、、
言い過ぎました、ごめんなさい。
実は少し頑張って調べました。
江戸時代の茶産地と言えば、宇治に静岡、そして狭山です。
江戸の町に広く流通していたのは狭山茶でした。
そして倒幕、明治時代となり徳川紀州家の下屋敷だった渋谷が、佐賀の鍋島家へ払下げ。
そこで鍋島家当主が、明治と言う新時代に何か産業をと考え、狭山から茶を移植して事業化。
茶園の名前を、松濤園としたそうです。
☆鍋島家
さてその鍋島家ですが、(藩と言う表記は明治時代になっての呼称)御国は九州の佐賀。
つまり、嬉野茶ですね。
あちらのお茶は、大陸の影響が色濃く残っていますから、釜炒り茶と呼ばれる、茶の葉を大鍋で直に炒る製法が残っています。
と同時に、いわゆる蒸し茶の製法も混在している土地柄です。
なので、茶産業や栽培技術に明るかったという背景もあるのでしょう。
実は私の実家も、釜炒り茶を作っておりました。
あの生の茶葉を火で炒るあの香りと言ったら、たまらなく良いのです。
明治の松濤園も、鍋島家の御国の香りに包まれていたことでしょう。
もしかすると、交通が急速に発達した当時ですから、もしかすると松濤園には、狭山から来たお茶の木に混ざって、鍋島家の故郷、佐賀の嬉野茶の「木」を送ってもらって植えられていたのかもしれない。
そう私は思うんです。
根拠はありませんが、そんな気、しませんか??
そんな古い時代のその時の息吹を伝える4株のチャノキ。
それがこうして生き抜いてくれたことも、こういう背景を連想させてくれますね。
日本のチャノキの歴史
遣唐使の時代
ところで、もっと古い時代の話です。
元々日本にチャノキは無かったんです。
やはり、これも大陸から伝わってきたんですね。
時代は、唐でした。
そして遣唐使であった最澄や空海という二人の偉大なお坊さんによって、それぞれ日本に伝えられたと言います。
また、狭山には、円仁によって茶の木がもたらされたという碑があるそうですね。
余談ながら、円仁は、かの浅草寺中興の祖としても有名です。
あ、それと、余談ながら遣唐使。
船出の折には、住吉大社で安全祈願を行うのが恒例だったそうです。
住吉大社については、松についての記事の時に書いておりますので、よろしければご覧ください。
< 高砂と松
最澄と空海
ちなみに最澄上人は唐へ西暦804年に入り805年に帰国。
そこで比叡山延暦寺にチャノキが植えられたという事です。
今もあるのでしょうか?
それはまた後日、調べてみようと思っています。
また最澄と同年に入唐した空海は、806年に帰国。
短期留学のエリート僧である最澄と違って空海は、20年という長期留学予定の無名の僧でした。
しかしあまりに優秀で、20年居ても学べないはずの様々な教えを2年もかからず習得。
そして、インドから唐へ伝わった密教を日本に持ち帰ります。
しかし、朝廷から申し渡されていたのは、20年間の留学です。
そこを勝手に2年で戻ってきた。
もう学ぶ事は学んで、一刻も早く習得した教えを日本に広めたいという思いからなのですが、まず理解されるはずもありません。
なので空海はその後3年間、京に入る許可が下りませんでした。
空海の空白
ここで、茶の話に戻ります。
最澄は帰国しての身分も安泰でしたから、茶をすぐに比叡山に植えることができたでしょう。
しかし空海は、3年ほど京の外へ留め置かれます。
茶の種の寿命は、そんなに長くないですから、種の場合はすぐに植えなければなりません。
また、株の場合も同じです。
ということは、です。
帰国後留め置かれた、大宰府の観世音寺近辺に、何かこの空海さんが植えた茶の痕跡があるんではないか、なんて思います。
これも後日調べてみますね。
ちなみにその後、狭山茶をもたらしたとされる円仁が、浅草寺に立ち寄ったのが西暦857年。
まぁそんな、すべて古い古い時代の話でありますが、私はこういう歴史が大好きです。
禅僧の栄西
それから時は下って1191年に、禅僧の栄西が、宋から株や種を持ち帰って日本に根付かせます。
そして日本に、喫茶の文化を広めたと伝わっています。
つまり栄西が喫茶を広めるまでは、遣唐使が伝えたお茶は、薬として服用されていました。
当時の航路の窓口は北九州でしたので(鹿児島から大陸へと言う航路もあったらしい)、栄西がまず日本に戻って茶の栽培を始めたのが霊仙寺。
この霊仙寺というのが、正式には備前霊仙寺。
そう、備前、つまり今の佐賀県あたり。
戦国時代に一度廃れますが、江戸時代に霊仙寺の茶栽培も再び盛り返したのです。
その再興の資金援助をしたのが、鍋島家でした。
今は明治の廃藩置県で、霊仙寺も跡地を遺すだけとなっていますが、どうも江戸時代の茶園の名残は残っているようです。
一度は尋ねてみたい場所の一つです。
☆佐賀と渋谷と鍋島家と
今回の、渋谷茶復活プロジェクト。
実にロマンあふれる企画ですよね。
それで、ついでに霊仙寺のお茶に、比叡山のお茶も復活してくれればいいのにと願わずにはいられません。
なんかいいと思いません?
そう言うお茶を、日本茶ロマンの歴史セットとして販売してくれたら、買います!
鍋島家の家紋と、ネコマークの茶油瓶を添えて。
という事で、本日ここまで。
最後までお読み下すってありがとうございました。
どうぞ佳き一日を💐